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庭園とは?/ レイク

[ 1078] 庭園 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%AD%E5%9C%92

庭園(ていえん)とは、見て、歩いて楽しむために、樹木を植えたり、噴水・花壇を作ったりなど、人工的に整備された屋外施設。日本では、自然を模して川・池・築山などが作られ、木や草が植えられているものもある。
中国の庭園には大きく分けて、苑囿と呼ばれる皇帝所有の大規模自然庭園と、貴族、官僚、豪商などの私邸庭園の別があり、両者の性格と規模は異なるが、造園の手法には共通点も少なくない。
苑囿の出現は周代にさかのぼると伝えられるが、造園の事跡が確認される古代の実例としては、秦の始皇帝の上林苑のほか、咸陽の離宮で渭水の水を引いて池を作り楕族山を築いているのは人工的な築山の先駆である。前漢の武帝は上林苑を拡張し、建章宮では太液池中に東海神山をかたどった築山を作った。茂陵の袁広漢の造園は石の築山、砂の洲浜を備え、珍奇な禽獣や樹木を集め、多くの建築を配したもので、すでに山水、花木と建築を組み合わせる中国庭園の原型がうかがえる。
下って後漢の梁冀の広大な苑囿、南北朝時代では北魏の張倫、劉宋の戴媛らの造園もまた山水を主たる園景としたものであった。また、隋の煬帝の東都の西苑、唐の長安の曲江、大明宮后苑、北宋の東京の艮岳、金明池、元の大都の太液池などに代表される歴代王朝の苑囿は、豪壮な規模と華麗な園景によって知られる。
貴族官僚の庭園では、唐の白居易の廬山草堂、王維の土川別業は歴史に名高く、また北宋の西京、南宋の臨安、呉興などの地にあった数多くの名園については文献の記述からその自然園景の画趣が伺える。しかし、これらの史上に名高い苑囿・庭園はいずれも失われ、古い時代の実例は伝わらない。現存する庭園遺構は、蘇州の芸圃や無錫の寄暢園などが明代の風格を留めているのを除くと、いずれも清代、大半は末期以降の再建を経ている。代表的遺構として、江南地方の私邸庭園に芸圃、寄暢園のほか、蘇州の留園、拙政園、滄浪亭、獅子林、網師園、環秀山荘、旋園、鶴園、揚州の个園、何園、片石山房、上海の豫園、南京の瞻園などがあり、また皇帝の離宮・苑囿には北京の紫禁城西苑、頤和園、円明園、承徳の避暑山荘などがある。
一方、遺構とは別に、往時の庭園の情況を録した『洛陽名園記』『呉興園林記』『游金陵諸園記』などの文献や、造園理論書を代表する明の計成の『園冶』をはじめ、張南垣、周秉忠、清の張佐、張然、葉降、李漁、仇好石、戈裕良らの造園論が伝わる。文献から伺い知る中国の造園は、人工的に築いた山水を造景の主題とする点では、ほとんど一貫している。園景としては自然を模倣して池、山、峰、谷、滝、洞などを築き、園内の配置は自由で不規則的なものが好まれ、花木とともに建築が観賞地点と園景対象の両面で主要な構成要素とされる点が特色といえよう。土、石の築山は漢代以来の伝統を有し、宋代には普遍化し、奇石の観賞は南北朝時代以降に文人の間で始まったものであり、詩や絵画からの寓意、借景や対景の手法とともに、中国の造園が長い伝統のなかで生みだした独自の手法に数えられる。同時に、『園冶』に代表される造園書の個別的手法と、その類型化をいっそう推し進めた現存遺構の諸要素が、その伝統の末期に属することも注意されてよい。
イスラム世界の中心となる西アジア、北アフリカの国々のほとんどは乾燥地帯に位置し、集落を取り巻くのは不毛の砂漠か荒野である。砂漠は単に視覚的に単調であるばかりでなく、無あるいは死を意味する忌まわしいものであり、この苛酷な自然を克服し改善して生まれたのがオアシスであり庭園であり、ここに人々の水と緑への渇望が集約されている。イスラムの庭園がきわめて人工的(整形的、幾何学的)な構成をとるのは、ひとつには範とすべき美しい自然が現実には存在しないからである。したがって、いわゆる借景という発想が生まれる素地はなく、まして水や緑を欠く枯山水などはイスラムの庭園の範疇には入らない。ユダヤ教やキリスト教における「理想の庭園」の長い伝統を受け継いだイスラムにおいても、庭園は永遠の楽園のイメージとみなされている。つまりイスラムの庭園は理想化された「地上の楽園」である。
コーラン(47章、55章、76 章など)によると、楽園には涼やかな木蔭とよどみなく流れる川や泉があり、さらに蜜と乳と美酒の川が流れ、あらゆる種類の果物が実り、そして美しい乙女たちが住む天幕が張られているという。この理想の庭園はペルシア絨毯にも写されており、戸外・屋内を問わず随時華やかな空間を展開させることを可能にしている。イスラム文化の基盤にはサーサーン朝のペルシア文化の伝統があるが、庭園の場合も例外ではない。整然とした木立が並び、池泉が設けられ、鳥獣を飼育する苑囿をも兼ねた囲みのある古代ペルシアの宮苑パイリダエーザ (pairidaeza) は「塀で周囲を囲んだ」を意味する語であり、パラダイス (paradise) の語源にもなった。サーサーン朝の皇帝たちは塀で囲い込んだ広大な園林(バーグ)を設置し、そこに果樹や花卉を植え、東屋を営み、池泉に舟を浮かべ、鳥獣を放って歓楽や狩猟などの儀式を大々的に催したが、イスラム時代に入ってもイラン系のみならず中央アジアやイラン地域では、テュルク・モンゴル系の王族たちも競って都市の郊外に大規模なバーグを多数建設した。これらペルシア文化の伝統は、イスラムの支配に下った後も長く保持され続けたのである。なおペルシア語で「天国、楽園」を意味するフィルダウスとはパイリダエーザの近世ペルシア語形である。
イスラムの庭園で最も重要な要素は水、植栽、パビリオンである。さまざまな水源から引かれた水は、概して直線的な水路を通って長方形ないし正方形に区画された花壇に配分される。中央で直角に交叉して全体を4分割するイランのチャハール・バーグ(???????、en:Chahar Bagh)がその典型である。水景施設としては噴泉、方形の人工池(ハウド)などが設けられる。イスラムの庭園は起伏の少ない平面的な構成をとるものが多いが、傾斜地では階段状に庭園が設けられ、落差を利用した滝が造られることもある。
植栽としては伝統的に果樹園に類するものが多く、オレンジ、ザクロ、イチジクをはじめ、ピスタチオ、クルミ、アーモンドなどの堅果類も好まれた。地域によって乾燥に強いタマリスク、サンザシなどが選ばれるほか、マツ、スギ、ナツメヤシ、プラタナス、ポプラ、ヤナギ、クワ、テンニンカなどの常緑樹、落葉樹が植えられた。草花はジャスミン、バラ、ケシ、イチハツ、ラベンダーなど多種多様である。宮殿を含めたイスラム世界の住宅建築において、外界から隔離された憩いの場である中庭は伝統的に建物と不可分の関係にある。庭園のもう1つのタイプ、すなわち郊外に造られることの多い公園のような規模の大きい庭園にも必ずパビリオンが建てられている。建築的にはなんら統一的な形式もスタイルもなく、各地の伝統がそれぞれ生かされている。一般に庭園の周囲には高い塀が巡らされる。それは、吹きつける砂塵や草木を食い荒らす家畜の侵入を防ぎ、街の喧騒を遮断する機能をもっている。もちろんイスラム以前のペルシアのパイリダエーザの伝統とも無関係とはいえない。以上の一般的な庭園に加えて、アーグラのタージ・マハルに代表される、王族や聖人の墓妓を中心にした特殊な庭園がトルコやイランなどで造られた。
イスラム世界における庭園の歴史は、各地に残る考古学的資料や文献によって8世紀前半にまで遡ることができる。おもな庭園跡としては、サーマッラーのカリフの宮殿・邸宅ジャウサク・アルハーカーニーの庭園跡、コルドバ近郊の夏の宮殿メディーナ・アサハーラの庭園跡、セビリアのアルカーサルのカスル・アルムバーラクの庭園跡、グラナダのアルハンブラ宮殿のミルテのパティオ、夏の離宮ヘネラリーフェの庭園などがおもな例である。一方、アケメネス朝以来の造園芸術の伝統があるイランでは、イスファハーンのチェヘル・ストゥーン宮殿の庭園、アシュラフのチェヘル・ストゥーン、テヘランのゴレスターン宮殿の庭園、シーラーズのバーグ・エ・タフト、バーグ・エ・エラーム、カーシャーンのバーグ・エ・フィンなどを挙げることができる。
古代エジプト、西アジアの庭園のようすが詳しく知れるような遺構は残存していないが、文献、壁画などからある程度まで推察をすることは可能である。たとえば古代エジプトにおいては、紀元前14世紀、第18王朝の上流階級の住宅のようすを描いた壁画から、整然と区画され矩形の池を配した庭の存在が知られ、園亭、パーゴラなどの施設が造られていたこともわかる。また聖域の聖性を高めるための植樹が行われたのは、西アジアにおいても同様であった。
古代西アジアの庭園も古くからの歴史をもつが、なかでも新バビロニア時代のバビロンの空中庭園が世界の七不思議として古来喧伝されてきた。これは宮殿の屋上、あるいはそれに相当する高みに造られたテラス式の庭園と思われ、おそらくその規模と、ユーフラテス川を水源とした揚水技術が驚異の的となったのであろう。
具体的な遺構を欠くために、推測の域を出ないものの、この地域がヨーロッパにおける庭園のイメージの源泉を形作ったことは間違いのない。古代オリエント神話における、聖なる泉を中心とする楽園の描写は、旧約聖書の記述を通じて中世ヨーロッパの人々の庭園観に少なからぬ影響を与えた。またルネサンス期の庭園には、それを具体的な形に移した、噴泉を中心に水路が方形の花園を四分するイスラム庭園の基本構成の投影がみられる。また古代ローマおよびイタリア・ルネサンスの庭園における揚水技術の展開も、東方にその淵源をもつと考えられる。
古代ギリシアにおいても、聖域、競技場や劇場などの公共施設、個人の大邸宅に林苑や庭園が造られていたことが、当時の資料によって知られる。しかしながら、ルネサンス以降のヨーロッパ庭園の展開に影響を与えたという点では、古代ローマの住宅やヴィラに付属した庭園が重要である。とりわけ小プリニウスがその友人に宛てた書簡のなかに記している彼の2つのヴィラ(トスカナ荘とラウレンティア荘)の列柱廊や園亭に飾られた庭の描写と、ローマ近郊のティボリに造られたハドリアヌス帝の広大なヴィラは、ルネサンスの庭園を計画した人々の重要なインスピレーションの源となった。古代ローマの住宅は、軸線上に配置されたアトリウムとペリステュルムの2つを諸室が囲む形を基本とし、さらにその奥に蔬菜園などが配される形を基本としたが、必ずしもそれのみにとらわれぬ多様な庭が造られていたことは、ポンペイやエルコラーノ、オスティアなどの遺跡に明らかである。噴泉は好んで多用されたが、それとともに刈込み(トピアリア)がさかんに行われ、幾何学的な構成の生垣のほかに、文字や動物をかたどったものまでが造られた。また室内に壁画として庭のすがたを描くことも行われており、ローマ国立美術館に保存されている皇妃リウィアのヴィラの壁画はその好例であって、果樹が豊かに実を結び、噴泉が高く水を吹き上げる当時の庭園のようすをしのぶことのできる貴重な資料である。
中世は庭園芸術の低迷期であるとする説があるが、これは必ずしも当を得ない見方であろう。たしかにはなばなしい展開こそみられないものの、庭は中世上流階級の人々の生活にとって欠くべからざる存在だったからである。ギヨーム・ド・ロリス(fr:Guillaume de Lorris)およびジュリアン・ド・マレ(fr:Jean de Meung)による『薔薇物語』の挿絵に見られるような、垣をめぐらし装飾的な噴水を中心として構成された庭が、おそらく一般の邸館に付属する庭園のありようであったと思われ、そこには珍しい植物、鳥禽が集められたのであった。十字軍の遠征がこうした傾向にさらに拍車をかけたのはいうまでもなく、とりわけ東方の花や木が珍重された。当時の庭は、のちのルネサンス庭園のような変化に富んだ空間構成よりは、いかなる植物を集めるかに重点が置かれていたように思われる。またこうした中世の庭のようすは、「鎖されし園」を意味する「ホルトゥス・コンクルスス」と呼びならわされる、楽園に座す聖母マリアを描いた宗教画などにもうかがうことができる。回廊が方形の庭を囲い込む修道院の中庭形式も、この時代に完成したもので、これは中央に噴泉や雨水溜、井戸(あるいは宇宙軸、生命の樹の観念にもつながる象徴的な樹木)を配して、天上の楽園の観念的な表現ともなるものであった。
文化の他のジャンルと同じく、庭園においても新しい動きがいちはやく現れるのはイタリアにおいてである。しかしながら、15世紀頃の初期ルネサンスの庭園は、中世以来の伝統的な形式からの過渡期的な様相が強く、まったく新しいルネサンス独自の様式が展開するのは、16世紀に入ってからのことである。 イタリア・ルネサンスにおいて庭園芸術がめざましい発展をとげるのは、上流階級の人々が好んで営んだヴィラと、そこでくりひろげられる生活のゆえであった。都市の周縁部、あるいは郊外に造られたヴィラは、別荘というよりはひとつの知的サロンというにふさわしく、たとえばメディチ家のコジモや大ロレンツォたちがフィレンツェの郊外に建てたヴィラ群は、当代最高の詩や音楽、芝居などに彩られた芸文の花開く場であった。これらは多く丘陵地帯を選んで営まれたが、その庭園は中世の庭の求心的で閉ざされた構成を脱して、大きな展望に向かって開いた構造をもつにいたっている。 たとえばトスカナ・フィレンツェ北方のフィエゾレの丘に築造されたヴィラでは、斜面に複数のテラスが配され、トスカナの田園の広々とした眺望が得られている。 しかし、のちの16世紀の庭園のように、テラス相互間を軸線(ビスタ)でつないで統一するといったイタリア式庭園の手法はまだ行われていない。このほか、フィレンツェ北西方のカレッジのヴィラも、よく当時の庭の面影を伝えている。
15世紀末から16世紀初頭にかけて、すなわち盛期ルネサンスの頂点に、文化の中心がフィレンツェからローマへと移ってきたときに、以後の庭園の構成に大きな影響を与える2つの庭が造られた。 1つは大建築家ブラマンテが設計したバチカン宮殿のベルベデーレ(en:Cortile del Belvedere)の中庭で、ここでは細長い敷地に軸線を通して奥行き方向に3段のテラスが築かれ、壮大な階段が空間のアクセントになって、最奥部は巨大なニッチに終わっていた。 また建築家でもあったラファエロがジュリオ・デ・メディチ(のちの教皇クレメンス7世)のために造ったヴィラ・マダマ(it:Villa Madama)は、ハドリアヌス帝のヴィラに範をとったものだが、ブラマンテの例と同様な造りのほかに、グロッタを主題として大々的に採用したことと水を活用したことが際だっていた。 これらの特徴は、16世紀を通じてイタリアのルネサンス庭園の重要な特色となった。
イタリア式庭園はヨーロッパ各国に大きな刺激を与え、そのボキャブラリーがアルプスの北方へと輸出されたが、やがてそのなかからフランスに新しい様式フランス式庭園への動きがあらわれ始める。まず宮廷造園家の家系に生まれたモレが、16世紀後半に刺斥文様を生垣に写しとったような刺斥花壇を開発し、さらに17世紀にいたってル・ノートルが、ブルボン朝の栄華にふさわしい壮大な様式を完成させた。ル・ノートルはボスケ(叢林)で庭園の主部を限りとり、そこに刺斥花壇、大噴泉などを整然と配して無限へと延びる見通し線を造りだした。とくにこのために彼が活用したのは、カナール(水路)である。ル・ノートルの出世作は、マザランのもとで大蔵縁をつとめたフーケの城館、ヴォー=ル=ヴィコントの庭園で、それは南北1.2キロメートル、東西0.6キロメートルの広さをもっていた。この庭がルイ14世の目にとまり、ル・ノートルは有名なヴェルサイユ宮殿の庭をデザインすることになる。ル・ノートルの関与した作品は、パリ周辺にたくさん残っており、シャンティイ、ソー公園、サン・クルーなどがおもなものである。
フランス式庭園もたちまちヨーロッパ各国の模倣するところとなったが、18世紀に入ると、イギリスにこれとまったく対照的な新しい庭園思潮があらわれてヨーロッパ全土に流行し、既存の名園までもがこれに造りかえるにいたっている。この新しい庭は一般に「風景式庭園」と総称されるが、イタリアとフランスの庭がそれぞれの地形的特性をよく生かしたものであったように、それはイギリスのゆるやかな起伏をもつ丘陵の牧歌的な風景をその基盤においたものであった。
イギリスでは18世紀になって、17世紀に普及した平面幾何学式庭園に反発し、イタリアのピクチャレスク、風景画家などの影響を受け、イギリス特有の牧歌的な風土のもとに生みだされた。この庭園様式はその後フランスやドイツ、そしてアメリカへと持ち込まれていった。初期は景観美のみを追求していたが、後期には実用性も兼ねられるようになり、建物の周辺には人工的な花壇やテラスが作られるようになった。
王室庭園の管理者だったチャールス・ブリッジマンは庭を細かく区画する事を嫌い、大きく意匠することに努めた。彼の作庭したストウ園は庭園に境界を作らず、ハハァと呼ばれる掘割りを使用して外部の空間と庭園とを接続させた。しかしブリッジマンのあと、風景式庭園における眺望を一幅の絵としてとらえる新しい傾向があらわれてくる。その手本は、たとえば17世紀のフランスの画家ロランやプッサンの描いたような古典的な神殿や廃墟の見えるローマ郊外の風景であった。このような傾向に対して、ただ水と芝、樹木と起伏のみによる構成を主張したのがケーパビリティの渾名をもつランスロット・ブラウンであった。
ドイツ文化圏は庭園の歴史においてはとくに独自の様式をつくりあげることなく、つねに各国の様式を採り入れて発展させてきた。イタリア式を採り入れたものとしては巨大なカスケードを配したカッセルのウィルヘルムスヘーエ(de:Bergpark Wilhelmshohe)の庭園、フランス式を採用したものとしてはウィーンのシェーンブルン宮殿、風景式庭園の例としてはミュンヘン近郊のニュンフェンブルク宮殿の改造部分などが挙げられよう。ただドイツ文化圏の特色として、単に時々に流行の形式を追うというよりは、さまざまなタイプを等距離において、形式を自由に選び取っている面もなくはない。また北方のロマンティシズムの色づけが、ドイツ文化圏の庭園に独特の幻想的な世界を築きあげていることも注意すべきである。
イタリアのルネサンス期には上流階級の庭園は公開が原則となっていたが、アルプスの北方ではこの習慣はなかなか広まらなかった。しかし18世紀になると、大都市においては上流階級の狩猟園の公開がしだいに行われ、19世紀の後半になると、公共の公園が庭園の新しいテーマとして登場する。各都市は競って公園を造り緑地を確保したが、そのデザインの基調となったのは、イギリスで発達した風景式庭園の思想であった。この種の公園として最大のものは、人口が増加しつづけるニューヨーク市が創設した面積850エーカーに及ぶセントラル・パークの計画であり、その設計にはフレデリック・ロー・オルムステッドがあたった。これは人口の密集するニューヨークにあって、今日もなお貴重な財産となっている。またこれを契機にオルムステッドは自らの職能をランドスケープアーキテクトと名乗る。
フランク・スコットは1870年出版の著書でアメリカの郊外住宅における理想的な庭園について述べているが、これは住宅群各棟が芝生の前庭を設けて隣接して続いていく状態を造りだし維持することで道行く人に道路沿いに広がる緑の広がりを鑑賞させるというもので、今日でもアメリカ各地で見られる景観を示している。当然個人庭園は住宅の背後に造られるが、こうした「戸外の室」アウトドアリビングとしての庭のデザインが成立していく。
19世紀末から20世紀初頭に登場する近代建築運動の登場にともなって、新たな庭園デザインが生まれてきた。ドイツではエルヴィン・バルトが同時代に流行したユーゲントシュティール(アール・ヌーボー)式の庭園を次々と手がける。また建築家ヘルマン・ムジテウスが建築と庭園の融合を主張し、1906年の自邸においては庭園を1室内のように整形式に区画区分し、パーゴラで建物との連続性を持たせるといった試みがなされる。著作でも1894年にチャールズ・プラットがイタリア式庭園についての書籍を著し、この中でイタリア式の屋外と屋内との統合、建築と敷地との関係を評価している。またフリッツ・エンケも1923年に著書で建築と庭園との関係を新たな視点で述べている。一方、アメリカのジャンス・ジャンセンは豊富な植物知識を武器にプレーリースタイルと呼ばれる庭園デザインに取り組んでいった。
アメリカでは中産階級のための、狭い敷地に建つ住宅マーケットが勃興していて、特に1929年の世界恐慌と後のニューディール政策の過程でそれまでの壮麗なネオクラシシズムないしボザール様式を誇る大規模邸宅は市場に姿を消していった。デザイナーによってアウトドアリビングとしての庭との格闘は1920年代中ごろから1920年代後半にかけて西海岸地区を拠点に活躍する建築家、庭園デザイナーにとって取り組まれていく。かの地では建築家のルドルフ・シンドラーとリチャード・ノイトラらによって建築と屋外空間の接触効果を最大限にもたらすデザイン的試みがなされ、パサティエンポ・ガーデンなど旧来式の庭園を設計していたトーマス・チャーチは1930年代後半から、Art and Arctecture誌のケーススタディー・ハウス数点を手がけ、プールが設けられ舗装される狭い敷地と西海岸特有の斜面立地条件、アウトドアリビングという観点からの庭づくりに取り組み、ダーネル(ドネル)・ガーデン、カーカムズ邸、マーチン邸、フィリップ邸、メイル邸、ビーチハウス・ガーデン等次々と代表作を生み出し、デザインを洗練させ独自のスタイルを確立するにいたる。
1925年開催の、のちにアールデコ博覧会と呼ばれるパリ万国博は、フランスのみならず世界の庭園史にとっても貴重な実例を示すものとなる。博覧会の作品はどれも小規模ながら、同時代の視覚芸術や実用芸術から得た理念の発露を試みている。作品はさまざまな素材で作成された彫刻、レリーフである意味見るものの意表をつくものであった。これらの小庭園は庭園の考え方を根本的に見直す時代が到来することを示唆するものとなった。もちろんロベール・マレ=ステファンとジャン&ジョエルマルテルが建造したコンクリートの木や、アルベル・ラプラードの鳥の庭に設けられた鳥かごなど、奇抜な印象なものが少なからずある。しかし一方でガブリエル・グーヴレキアンの水と光の庭のようにデザイン的に非常に際立ったものもあった。会場の中央遊歩道に接する三角形の敷地に押し込まれたその庭は、敷地の三角形が主要なモチーフとなっている。その過激な外観と厳密なデザインに単なる幾何学の実験にはとどまらない形態的な転換を示していた。その後グーヴレキアンの左右対称性と地表パターンの強調といったデザインの特徴は当時の庭園で流行した。翌年1926年にはドイツ・ドレスデンで開催された庭園博覧会にグスタフ・アリンガーが「未来の庭園」と題した、当時の表現主義の影響を受けた庭園を出展する。
また同時期にフランスで書籍の装丁や内装デザイン方面で活躍していたデザイナーのピエール=エミール・ルグランがキュビズムなどの影響を受けた構成、幾何学パターンを多用したタジャール邸庭園を世に送り出す。のちに鮮やかな青のカスケード階段やバラの芝庭を備えたモダンな庭園、ノームキーグや華麗な曲線を描くエルウォンガー邸庭園を生み出すフレッチャー・スティールは、こうしたフランスの新しい庭園事例をアメリカの季刊雑誌で紹介し、それらの作品がアメリカの若手デザイナーを刺激する。フランスの新しい庭園デザインの新時代の到来を提示したこの論説は強烈な印象を与えたようであった。
また同時にモダニズム勃興期でもあった。ミース・ファン・デル・ローエがバルセロナパビリオンを、またワルター・グロピウスがハーバード大学へ赴任し、1932年にはMOMAで「インターナショナルスタイル:1922以降の建築展」、1937年には「現代ランドスケープとその源泉展」とパリ国際博覧会で造園家による第一回国際会議が開かれている。
この結果、従来の二元論的な庭園作成手法は異議が唱えられ、主として若い世代の造園家/ランドスケープアーキテクトを中心として改革運動がアメリカで起こった。彼らは自然風景式と整形式とに分類し選択するといったことを求めず、モダニズムの美学、近代建築の有する秩序体系に合致しそこから発露される庭園デザインを求めたのである。
こうした展開がさらに同時期、グンナー・アスプルントとジガード・レヴェレンツの「森の火葬場 The Woodland Cemetary」ジェフリージェリコーのホープセメント工場の跡地利用全体計画、カイリーとエーロ・サーリネンらのジェファーソンメモリアル、フィリップ・ジョンソンのロックフェラー・ガーデン、サーリネンとチャーチのジェネラルモーターズ技術センター、ジェフリー・ジェリコーのギネスヒル高速道建設に伴う残土の芸術的利用計画、テオドラ・オルムンドソンとステイリーのオークランド、カイザーセンターの屋上庭園、タナードの教え子ローレンス・ハルプリンやチャールズ・ムーアらの「シーランチ」、エクボが専門家として参加したナイヤガラの滝修復計画など、今日では現代の広汎な要求に応えて、庭園の枠を超えて環境全体のデザイン(環境デザイン)を手がける専門家の誕生をみており、都市内に建築その他と一体となって造られる公園や大規模な住宅地計画などに活躍している。
「庭園」という言葉は新しいもので、もともと「庭」と「園」は別の意味をもっていた。「庭」は仕事や行事をするための場所をいい、囲われているか否かにかかわらず、平坦な土地を指した。古代は神事や政事の場所でもあったが、屋前の広場、屋前および屋内の農作業場、家屋まわりの空地などに対しては、今も「庭」が通用している。古事記や仲哀記には神の託宣を聞く清められた空間を沙庭と呼び、神功紀には「為審神者」とあって神託を聞く審神者と呼んでいる記事がみられる。サニハは「神に供する神聖な稲を積み重ねる場」、と理解され、「神にささげる稲を育てる神聖で触れてはならない田」と注釈されるユニハ(齋庭)とともに稲にかかわる神聖な空間として認識されていることがわかる。 「園」は日本書紀の孝徳天皇紀にある「園」では歴史家の解釈では今日の庭園の意味としてよりも、一定の管理下にある果樹などを植えた空間とみられているが、後に野菜や果樹、ときに草花を栽培している「囲われた土地」を意味していった。所有主の領域を示し、また植物が植えられているのが特徴である。野菜や果樹のような実用的なものより、花卉のような観賞的なものが主力を占めてくると、今日いう「庭園」の概念に接近してくる。 庭は、植物の有無には無関係で、囲われていないのが特徴である。庭と園は人の生活する家を媒介として結びつき、それぞれ内容を濃くするものであったが、庭と園をくっつけて、庭園という語になったのは明治以降のことで、19世紀末、明治20年代から30年代にかけて定着していったものである。室町時代の記録では、足利義政の同朋衆である善阿弥は泉石の妙手と記されているほか、義政が相国寺塔頭内の蔭涼軒を訪れたとき『蔭涼軒日録』では、泉水御遊覧としていることから、泉石や泉水が池や滝、石組を持つ庭園の全体を示す表現に使われているようである。16世紀末頃に来日宣教師たちが作った日葡辞書では、庭園を表す表現として庭(NIWA)と園(SONO)、前栽(Xenzai)が掲載され、パテオと訳されている。江戸時代には京都の庭園案内書は『都林泉名勝図会』のように林泉という表現が現れている。現代、庭園の語は、造園の対象となる、区画された、美と機能のそなわった空間に対して使われている。また庭という言葉もひきつづいて使われ、社会生活が複雑に高度になるにつれて、造園の範囲は拡大し、区画されない土地、すなわち庭のウェイトが今日ますます高まっている。従来、造園の対象とした庭園の場合はほとんど個人が生活する邸宅住居か寺院などが所有する庭園にすぎなかったのだが、今では、会社ビル、官庁、事務所、病院、学校、共同住宅、ホテル、公共の施設、建物の屋上など、さらに造園自体も緑地、緑道、広場、自然公園、国土の環境保全というように対象範囲がひろがり、対象が必ずしも囲われている空間ばかりとは限らなくなった。
飛鳥時代には中国から伝わった須弥山・蓬莱山など仏教・道教の世界観などを表現した庭園が造られたという。日本書紀において推古20年(612年)には百済から路子工が来日し、須弥山、呉橋を造ったことや、推古天皇34年(626年)条の年に没した蘇我馬子の飛鳥川の畔にあった家の庭には、小池が掘られ、池には小島が築かれていた、という記録がある。「しま」は庭園を指す表現として使用された例があり、後に伊勢物語78段にも、仁明天皇の皇子人康親王の山科にある邸宅に、藤原常行が石を謙譲しようとして「島好み給君なり、この石を奉らん」といった話も伝えられている。 庭園の記録は草壁皇子の庭園などが『万葉集』の和歌に収められていて、歌に詠まれるような観照の庭であり、奈良時代の藤原京、平城京の庭園跡は、1960年代以降の発掘調査によりいくつか例が知られ、曲水の宴に使われたと思われる水路の跡も見られる。これらの記録から日本独自の実際の景を模写する自然風景式庭園を形成してきたことが見受けられる。
当時の京都盆地はいたるところに湧泉が得られ、なだらかな傾斜地であったとされるが、地形を巧みに利用した作庭がみられ、9世紀に京都の北西にある大沢池など、天皇の離宮や退位してからの御所の庭園に優れたものが多く造られていくが10世紀も半ばを過ぎると、藤原氏が広大な荘園を経済的基盤として栄え、彼らの居住する寝殿造の館にも庭園が造られてきた。貴族の住宅や庭園には大陸文化とは違った独自の様式が造られた。
平安時代中期(10世紀)以後、仏教は国家的なものから私的なものに変わり、貴族の私寺が増え住宅の中に御堂を建て、また仏寺が別荘としての機能も果たし、庭は浄土式として知られる。11世紀から12世紀を通じて眼の前に極楽浄土の世界をつくろうとしたのである。 平安時代から鎌倉時代にかけての文献に現れる庭園表現は庭、坪、前栽、泉石などでほとんど占められ、儀式のための平坦な土面、建物に囲まれた空間と植栽、さらに泉の存在や池、石あるいは石組で寝殿造造園は造られていたからである。
12世紀末、南宋より禅宗が伝えられたが、同時にもたらされた禅宗寺院の様式や庭園は、1世紀を経てようやく日本的に消化され、定着するようになった。この中心人物が夢窓国師であった。禅の修業と庭造りを同一レベルにおくことで自然への深い洞察とそれに触発されて全くあらたな自然景観を創造し、感性を介在させて自然の本質を的確にとらえる表現手法を確立した。
禅宗の興隆と書院造の発達に伴い、作庭技術が向上し、歴代将軍が作庭を好んだこともあって、多くの名庭園が作られた。14世紀末頃から水墨山水画と根底を等しくするような、小さい書院の前庭としての狭い空間に、自然の山水を凝縮したような庭をつくりだした。岩石を2つ3つ組んで山や滝を表し、砂で川や海を象徴しようとする。代表的な実例が、大徳寺塔頭大仙院の書院の庭、さらにこれ以上省略できないというところまで材料を単純化した竜安寺の庭のような傑作まで造られた。こうした石庭、池や小川などの水を用いずに、石の配置によって水の流れを表現する手法は枯山水として知られている。
15世紀後半から茶の湯が盛んになり茶室というジャンルが確立、茶室に付属して茶庭/露地が設けられた。植木は山にある常緑樹を用い剪定は最も戒められた。施設群は長いあいだ風雨にさらされていると風化して苔が生え、その侘びた姿が好まれたのである。茶庭/露地はまた茶室への「みち」を意味し露地は茶室へ飛石をつたって歩くようにできている、あくまでも歩く、歩むための庭であって、見る要素は少ない。
17世紀初め将軍あるいは大名は、江戸屋敷に庭園を築く。回遊式と呼ばれ、江戸に造られた庭園の中で、最も有名なものの1つに小石川後楽園がある。
17世紀も中期になると町人の文化が栄え、華やかな風潮が支配する時期を迎えたが、庭園も広い芝生をとった明るいものになった。中世のように池泉にも石組みを多く使わず、石を使うときも、捨石といって要所に1個だけを捨てたかのように配することが行われた。丸みのある石が好んで使われたのはこの頃である。
18世紀初期に岡山藩主池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて14年の歳月をかけて作らせた岡山市の後楽園(当時「茶屋屋敷の庭」とも言われた)は芝生と池を主とした開放的な空間創りが心地よい庭で、現在日本三名園に数えられている(他の2つは金沢市の兼六園と水戸市の偕楽園)。四国の高松市にある栗林荘もやはり大名の別荘である(栗林公園)。この栗林荘を造営した讃岐高松松平氏が水戸徳川家を継いだとき、同家の小石川後楽園を当世風に大改造し中国風をやわらげたのも、同じく18世紀初期の頃であった。同時期に柳沢吉保が造らせた江戸の六義園は、和歌趣味にあふれた明るい庭として知られる。
18世紀後半になると2つの特徴が現われた。1つは著しい園芸の流行である。江戸ではある地域一帯に植木屋が軒を並べて花園を開放し、江戸市民の名所になった。これが大名の庭園にも入って、小石川後楽園が再度改造され庭園内に草花が植えられた。また、江戸の隅田川東岸の向島に町人が造った百花園は草花ばかりの庭園であり、19世紀半ば浅草に出現する「花屋敷(現浅草花やしき)」とともに、営業として成立したのであった。もう一つの特徴は、大名庭で庶民に開放されるものがでてきたことである。水戸の偕楽園や白河市の南湖公園がそれである。庶民といっても一般大衆すべてとはいかなかったが、近代の公園や遊園地へ結びつくものとして重要である。
明治時代以降では、実業家・政治家などの庭園に有名なものがあるが、特に山県有朋は庭園好きで知られ、京都の無鄰庵、東京の椿山荘などを残している。庭師では植治こと七代目・小川治兵衛が有名で、無鄰庵をはじめ円山公園、慶雲館本庭など代表作は国の名勝に指定されているものが多い。
大正から昭和2つの目立った動きが登場した。 1つは自然の景趣を写そうとするもの、そして、「雑木の庭」が登場する。もう1つは大正期から古庭園の研究が行われ、重森三玲などが新しい庭園を模索した。 第二次世界大戦後、建築が近代化するにともない日本庭園も発展していった。中島健による日本芸術院会館の庭園、岩城亘太郎による鳳琳カントリー倶楽部、深谷光軌が手がけた京王プラザホテル外空間、鈴木晶道、枡野俊明の一連の作品群、などがそれである。

 

[ 1079] 日本庭園 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BA%AD%E5%9C%92

日本庭園は寺院にあるものや、大名屋敷の庭園/庭園跡などがあり、そのほかでは政治家・実業家の邸宅/邸宅跡のほか、公共施設やホテルの敷地に造られたものもある。
構成としては池を中心にして、土地の起伏を生かすか、築山を築いて、庭石や草木を配し、四季折々に鑑賞できる景色を造るのが一般的である。滝を模し水が深山から流れ出し、大きな流れになってゆく様子を表現する手法や、石を立て、また石を組合せることによる石組表現、宗教的な意味を持たせた蓬莱山や蓬莱島、鶴島、亀島などに見立てる手法が多く用いられる。
庭園内には灯籠、東屋(あずまや)、茶室なども配置される。また枯山水といわれる、水を用いずに、石、砂、植栽などで水流を表現する形式の庭園も作られた。白砂で水の流れを象徴するところに特徴があるが、これは庭園には水が不可欠のものであるという考えがひそむ。庭園のことを山水といったのもそのためである。室町時代以降には枯山水は禅宗の思想と結びつき、禅寺などで多く作られていく。江戸期以降になると庭園内のみならず庭園外の景色を利用する借景という手法も広く用いられる。
日本の庭園様式の変遷をひもとけば、建築様式の変化や大陸からの宗教や思想の影響が庭を変化させている。磯崎新は日本の庭園が特に海などをメタファーにすることにつきるように思われるのは「見立て」というメタファー発生装置を作り上げたためだと述べている。作庭記の記述も池泉やそれらを表現するための石組みなどでもうみなど、自然をメタファーとして表現し、見立てによって縮景を行う作庭手法を伝聞する。このようなメタファーを用いたのは、それが表現するものを不特定多数の人に伝える浄土式や神仙などのような古来の思想を含んだ庭には表現すべきモデルとしての、斎庭などの儀式の庭はその場の神や同調者とが、禅寺の庭も景を修行のひとつである思想を持つ人々が共有する景が必要であるからとされる。
建築から外部空間の問題は近代期の日本においては逆説的とされるが、これは日本の伝統的な建築的風土は外部空間を自明なものとして現前させてきているからで、近代建築のように様式という縛りがなくなり、すべての空間構成要素は等価となり、べつの空間構成言語として外部空間は意識されると、近代建築のフィルターをとおして日本の伝統的空間対する理解を深めていったモダニストたちは外部空間の重要性に気付き、これを自らの空間表現の遡上に載せたのである。
それを建築家堀口捨己は意識的に挙げている。堀口は明治大学建築学科での造園論の講義の中で、日本庭園の起源としての自らの庭園観を披露しているが、このとき従来の庭園イメージとは異なる庭園について述べるといって、3つの要素、古代の古墳、厳島神社、皇居の堀端を上げている。そこでは建築も、庭園も自然もそういうものがあいよりあいまて、ひとつの何か空間構成、スペースデザインというような言葉に丁度ぴったり合ったような非常に大きな空間構成をやっていると語っている。すなわち庭園を庭園と建築とに分けてしまうのではなく、建築や自然さらには敷地が持つ雰囲気をも含めた総合的で都市計画的な空間構成を持って庭園といっている。1934年に発表した岡田邸は洋室部分と和室とを外部空間である庭で媒介している。しかしここではいえとにわをつなぐ月見台が南面した広間から延び、そこから秋草の庭へと空間が遷移し、建物を外部へと開く魅力的な場所を提供している。こうした空間構成は堀口の戦後の作品にもみられる。和洋を並存させ、また建築と庭とを一体化させることで場面や奥行きを生じさせ、日本の美意識に通じる空間構成を完成させるに至る。
3世紀から日本列島ではクニの統合や政治的連合などが進み、ヤマト王権が確立し国家が成立していく時期になるが、また高塚式の墳墓を伴う古墳が造られ始めた時代と考えられ、石室の造営や石棺の製作と古墳の葺石および居館周濠の貼石などに大量の石材の使用と、大きな石材を積み上げ固い石を加工するといった技術がみられ、墳丘の造成に版築と呼ばれる工法が使用されたり、池溝の開作や築堤など大規模な土木工事が行われるようになっていた。
ヤマト王権の時代になると日本書紀にも庭園に関する記事が記載されるようになっているが、庭園に関する表現は中国の典籍からの引用があり、注意を要する。記述として、たとえば紀元1世紀に在位した景行天皇4年春2月には、泳(くくり)の宮の庭をたいそう気に入り、庭にある池を金色の鯉で充たしたというくだりがある。この少し後の古墳時代には、庭園は古代から仏教世界の中心とされてきた須弥山を表す石の山のまわりに営まれているとされる。この象徴の山は7世紀にはさかんに造られたらしいことがわかっている。仲哀天皇8年春正月では周文王の徳を尊んで庶民が集まって霊沼が日ならずしてできた様子が記載され、白鳥は高々と飛んで魚は沼池に満ち跳ねるといった故事を思わせる。充恭天皇2年は一人で園に遊ぶ皇后にまがきにのぞんで内の薗になっているアララギをもとめる記事がある。宅地を区画するまがきを設け薗をつくって蔬菜を栽培したりするような実質的な庭空間が成立し、充恭天皇8年の、井の傍らの櫻華をみる、といった記事は自然環境的な美意識が確立していた段階と見て妥当とされる。
日本書紀によると、7世紀前半に在位していた推古天皇も宮の南に須弥山と呉橋のある庭を持っていたことや、7世紀後半に在位する斉明天皇についても同様であったとされる。斉明天皇の宮では、612年百済の帰化人が皇居南庭石上の池畔に須弥山と呉橋を築いたとされる。また620年ごろ蘇我馬子が邸宅敷地に方形の池を設け、このために「嶋大臣」と呼ばれ、この庭園が珍しく、評判になっていたという記録がある。平坦な広場として実用的に使われていた「庭」に小池を掘り、小島を築いて観賞の対象としての「庭園」が造られたのであるが百済から仏教が伝えられたとき、崇仏か否かの論争があったが、崇仏側の蘇我氏が勝ちを占め、飛鳥寺が建立された。庭園がこの蘇我氏によってつくられたことは、庭園の技術も百済より伝来したと想像させる。
推古天皇期に創建された厳島神社は、空間的特徴は海上に浮かぶ大鳥居と平舞台、本殿を結ぶ軸線に対し、曲折する回廊が取り囲み、自然に溶け込む社殿や大鳥居がアプローチにしたがって見え隠れする配置で、海を庭園の池泉に見立て、背後を囲む山岳を神体に見立てたもので、海と山を一体的に取込んだ雄大な風景が組みこまれている。対岸の地御前神社と厳島神社の対応に至っては、身をもって味わい得ても、図示することは不可能だったと、厳島神社の建築と庭園の実測を行った建築家西澤文隆の言葉がある。
三重県伊賀市で発掘されている祭事の関連遺跡である城之越遺跡は後の庭園の修景意識と技術にかんする遺構を有していたため国の名勝及び史跡に指定されて保護されている。この遺跡は古墳時代前期の4世紀後半に属するとみられ、3箇所からの涌き水が合流して大溝となって集落付近を流下し、涌き水点近くは石組みや加工木材で井戸状に囲い、貼り石護岸を有する。合流地点の岬部分は大石を配していくつかは立石として景を整える様子がうかがわれている。これは後世の流の屈曲点に石を添える手法につながる工法意識であるとされる。
大化改新後、天武天皇の皇子、草壁皇子の邸宅にも庭が設けられ、その様子は「万葉集」に草壁皇子の早世を悲しんで春宮の舎人たちの詠んだ歌が『万葉集』巻二に残されている。この歌から草壁皇子の庭園がかなりはっきり知られる。庭園には池がうがたれ、荒磯の様を思わせる石組みがあり、石組みの間にはツツジが植えられ、池中には島があり、このために「橘の島宮」と称せられたという。このように、池を掘り海の風景を表そうとしたことは、以後の日本庭園にも長く受け継がれる。記録に海浜・荒磯・島など海景描写の多いことは日本庭園形成の基幹を位置付けるものとして重要で海からはるかに遠い山国にあっても海景とくに瀬戸内海の美しい風景はこのころから追憶、あこがれの対象であり、これを庭園に再現する努力から筑山・池・島・白砂・水流・滝など自然要素で構成する日本の伝統様式に発展し、すでにこの時代に位置付けられていたことを示している。
飛鳥宮や平城京跡の庭園発掘がすすみ、文献では得られない知見を加えている。1975(昭和50)年に発掘された平城京の左京三条二坊六坪からは、長さ55メートル、最大幅5メートルの、細長く屈曲し、底に玉石を敷きつめた池が発掘され、公的な曲水の宴が催された庭園として注目された。池の水深は浅く汀線が複雑に湾曲しており、池底に玉石を敷き池縁に石を立てるなど、奈良時代の作庭技法と当時の庭園の様子を伺うことができる。
8世紀末になって都が平安京に遷されたが、京都は三方が山に囲まれた濃い緑に囲まれる山紫水明の、清流にめぐまれた景勝の地である。いたるところに森や池や泉があった。三方の山々は古生層に属してゆるやかな起伏をもち、また盆地縁辺にはいくつかの独立した小山も点在していた。この古生層の山河からは、美しい庭石と白砂がとれたがこうした自然環境は樹木・石・水・砂など良質の作庭材料を供給し、地形からも材料からも、庭園をつくるのに好適の地であったといえる。
京には東西2町南北4町に及ぶとされる神泉苑や冷泉院、朱雀院、淳和院などの庭園があったとされているが、わずかにその一部を残す神泉苑に当時の豊富な湧水を貯えて巧みに利用した往時の姿をしのぶことができる。また郊外の景勝地を選び離宮や別荘を営んで庭園をつくることはこの頃から始まっているとされ、京都市右京区嵯峨にある大覚寺の大沢池は、嵯峨天皇が離宮の苑池として作ったものの遺構とされ、平安時代初期庭園の貴重な遺構である。その庭園の主要部である大沢の池は北岸に近い大小二つの中島と池中の立石、また北側の名古曽の滝跡とともに平安時代初期のおおらかな面影を今日にしのばせている。
平安時代の貴族の邸宅の形式は寝殿造と呼ばれ、その建築様式は普遍化し、それに伴って庭園の様式も寝殿造り庭園としてその形式を整えていった。寝殿の正面(南側)には遣水から中島のある池に水を流し込む庭園が設けられた。また右大臣源融の邸宅河原院の庭園は奥州塩釜の海景や松島の浮島、六条院は丹後の天の橋立の模写などがそれであり、これらは前時代からの自然風景の縮景手法の延長線上に行われたことが伺える。奈良時代から受け継がれてきた海景の縮景庭園はこの時代にも広く用いられているが、莫然とした海景の模写から特定の海景の模写へと変化していった。またこれらを主題に歌合せの催しが行われていることから日本庭園が文学的・情緒的であることも一つの特色といえるが、このころは「古めかしきもの」から「今めかしきもの」への変換期で、生活形式が変わりつつあったといわれる。中国から伝来した中国絵画がようやく日本化され、いわゆる「大和絵」の成立したのもこの時期であり、漢詩文に対し仮名書きの文学作品が書かれるようになるのもこの時代である。
また平安時代中期から浄土教の影響で西方浄土の極楽に見たてた浄土庭園が流行した。参拝者は南門をくぐって大池に架かった反り橋を渡り、中島を経て御堂に達するようになっていた。なお池や庭園がやや整形的になっているのが多いのは、浄土曼荼羅の構図がもとになっているためと推測されている。
この時代の庭がとくに詳しくわかっているのは、当時の公家橘俊綱が書いたといわれる『作庭記』が残されているからである。平安時代後期に庭園の地割、石組、滝・遣水、植裁等の技法について著された秘伝書『作庭記』には自然の風景からモチーフを得るという主張が貫かれている。また自然と作者との対応のしかたが<乞はんに従う>という言葉で表現されている。これは自然の地形や岩石が、人間に要求してくるというもので、自然が人間に要求するという感じ方に、日本人独特の自然観がみられる。自然が人間と対立し克服すべき対象となるのではなく、自然の中にとけこみ、自然に従いながら作庭しようとする意味である。また<池なき所の遣水は、事外にひろくながして>とあるように見せ方を種々述べているが、その見せ方の記述に、後に展開される日本作庭手法の先駆的表現が示されている。四季折々を歌に詠む情緒的な文学の世界と建物近くに配される滝・遣水・野筋・前栽については日本人の好む作庭感が述べられている。『作庭記』が公家自身の手で書かれたように、当時の公家は一流の作庭家でもあった。この著者の父は、平等院をつくった藤原頼通である。藤原頼通も庭園をつくろうとしたとき、気に入った専門家がなく、みずから作庭したといわれる。
初めて武家政治を打ち立てた源頼朝も、鎌倉に浄土式庭園の形式を受け継いだ、永福寺の庭を造っている。頼朝が1189(文治5)年7月の奥州合戦で平泉を見聞した中尊寺、毛越寺、無量光院など精舎の荘厳さに感激し、合戦で死んだ弟義経や藤原泰衡ほか多くの将兵の鎮魂のために建立したと伝えている。1978年から鎌倉市教育委員会によって二階堂と阿弥陀堂、薬師堂を中心とする主要伽藍とこれら建物の前面に広がる庭園の遺構を確認することに主眼を定めた発掘調査が継続して行われている。1993年までに約12000平方メートルもの面積について発掘されその結果伽藍の配置や堂の規模、庭園の様子などは徐々に明らかになってきている。
13世紀初めには京都の北西に鎌倉時代初期の公卿で太政大臣であった西園寺公経は仲資王の所領であった北山山荘の地を得て北山第を建てたが、公経はこの地に巨万の富を投入し、作庭された庭園は変化に富んだ大きな池を中心に本堂西園寺をはじめ多くの御堂と住宅が配置されたもので、池に臨んで釣殿が配され、池中には中島を築き松が植えられていたとされる。1225年にこの地を訪れた藤原定家は明月記に、45尺の滝があり池水は瑠璃のようで泉石は清澄、まことに比類がない、と記し激賞している。また増鏡にも記述され、当時の地形眺望の巧みさが伺うことができる。
時の室町将軍足利義満は1397年に北山山荘の地を譲り受け北山殿と呼ばれたが、さらに規模を拡大し、山荘北山第を営み、有名な三層楼閣の舎利殿(金閣)が建立された。金閣は庭の中心をなす建築物で池に望んで建てられ、これはこの時代から楼閣からの俯瞰という、庭園鑑賞の新たな視点を生み出しているとされるが、さらに北側に建つ天橋閣と往来が可能だったとされる。竜門瀑や広大な鏡湖池と池中の大小の島々や岩島・丸山八海石を配した庭園は西方極楽に変え難く、足利義政は西方寺にも劣らない風景であると賞したとされる。義満はここを仙洞御所になぞられ、明の国史を迎えたり、天皇の行幸を仰ぐなどの公式の用に充てていたとされる。義満の死後、鹿苑寺(金閣寺)となり1422年には禅寺になっていくが、主要な建築物の大部分は移築されその際に庭園も相当な影響をうけたらしく破壊された庭石は長らく放置されていたという。現在の景観は江戸時代における住職鳳林章承の修復、復興整備によるものである。
鎌倉時代から室町時代にかけて五山を中心に禅僧たちの間に文学が隆盛し、また南宋から水墨画・山水画が伝来し、公家をも含めた詩会のためのサークルをつくっていた。このサークルの場として禅寺の書院が使われることが多く、したがって書院の庭が当然発達することになった。この小さい書院の前庭としての狭い空間に、自然の山水を凝縮したような庭をつくりだした。大仙院の庭は書院の東側に位置し100平方メートル余の平面に岩石を立て、刈込みを配し岩山として2段滝の石を組み、白砂で表した流れには石橋を架け岩島を設け、石堰を横たえた下流に石橋を浮かべるといった景はすべて山水画と相通ずるものがある。枯山水を参照。
この時代には夢窓疎石をはじめとする多くの作庭家が輩出される。夢窓国師は自然を愛好し、行くさきざきに名園を造った。なかでも西芳寺の庭は、禅宗の世界観で構成された傑作で、この庭園が以後の庭園に与えた影響は測り知れないほどである。ここは『作庭記』にいう山里の景に似ながら、きびしい禅の世界を思わせる。夢窓国師が庭園を造るときは、それは遊興のためではなく修行の一部であり、庭園をつくるために田畑をつぶす苦しみを述べた記録も残されている。他の一流芸術に匹敵する庭園は、こうした心のあり方から生まれたともいえる。禅堂の前庭として非常に相応しい環境の構成であり、石組みの最高峰といえる。
例:夢窓疎石の作とされる庭園として西芳寺(京都)、天龍寺(京都)、瑞泉寺(鎌倉)などが挙げられるが、帰化僧の蘭渓道隆が関わったという説もあり確定されているものではない。代表的な枯山水庭園では、大徳寺大仙院のほか、龍安寺方丈石庭(ともに京都市)などがある。
室町時代から京都、堺の町衆の間から「下々のたのしみ」としての茶の湯が流行した。茶を飲み茶器を鑑賞しあうことで、主客の融合をはかったのである。茶の湯は数寄と呼ばれ、市中の山居で営まれる。それは町屋の奥まりに位置し、茶の湯を楽しみにやってくる客人は玄関とは別に、専用の細い通路を通り茶の座敷へと向かう。これが路地であるが、この路地と市中の山居が機能的に融合させたわび茶のための庭園空間が露地と呼ばれ、海の風景表現から深山の趣に変わり、庭園表現にあらたな新境地を開く。
江戸時代、将軍あるいは大名は、城や(江戸の)屋敷を築く際に庭園内を回遊することができる廻遊式庭園を盛んに築いた(大名屋敷の庭園に代表される池、築山を中心にした回遊できる庭園は池泉回遊式庭園といわれる。大名庭園を参照)。
明治になると、三菱財閥の岩崎家が旧大名屋敷を次々と取得する。そうして受け継いだ旧大名庭園のいくつかは整備され、戦火を潜り抜けて現在東京都の公園として、また旧安田庭園のように区立として公開されている。また西洋の影響で生活様式や建築が変わり、それにつれて庭園にも新しい動きがみられた。大名庭園の池を芝に変えた旧岩崎邸庭園、青森の盛美園、徳川昭武の別邸戸定邸庭園など、旧大名や政府の高官、新しい実業家たちが日本庭園をつくったが、従来の池の広い水面の変わりに芝生面を広くとった明るい庭、園内に洋館を建てるなどの和洋折衷の庭で、ここで園遊会などが行われたとされる。
当時の首都東京では江戸時代の大名屋敷とそれに付随する庭園が次々と壊され、この現状を目の前にして小沢圭次郎は職務の余暇として古い庭園の記録と資料収集を行っており、退職してからはさらに庭園研究に励み、1915(大正4)年『明治庭園記』を発表するに至る。収集した資料は800余巻に及んだ。小沢は単なる庭園史の研究家でなく自らも日本庭園を作庭し、天王寺公園や伊勢内宮・外宮の外苑、栗林公園の修景のほか、ロンドンで開催された日英博覧会に出展された日本庭園、また自身の故郷三重県桑名市では1928年に松平定信百年祭にともない造られた九華公園などの作品がある。また庭園研究のほか、漢学への造詣が深く、漢詩文集『晩成堂詩草』15巻を書いている。
明治後半期の東京に数多く建てられた新興ブルジョアジーたちの大邸宅庭園の様子は近藤正一『名園五十種』にも紹介されている。同書で折衷式の庭の様子がよくわかり、渋沢栄一の邸宅愛依村荘は広大な敷地の中に日本家屋と洋館が建ち並び、洋風と和風の庭園、また茶室と茶庭を兼ね備えていることがわかる。また京都武者小路一門の茶匠で造園家の磯谷宗庸設計の三菱深川親睦園日本庭園内の洋館はジョサイア・コンドルが手がけたが、コンドルはこの後和風住居や庭園と洋館・洋風庭園を並存した旧岩崎邸庭園や三井網町別邸、旧諸戸清六邸、旧古河庭園などを手がけていく。
山縣有朋が1896年京都の南禅寺の西に造った無鄰庵も、さほど広くない敷地をうまく使って東山を借景とし、疎水からひいた流れが芝生の間をぬっている。施工にあたった小川治兵衛(植治)は、その後、南禅寺近辺に野村碧雲荘、平安神宮神苑、大阪の住友家庭園(慶沢園)、長浜の慶雲館本庭、長尾欽也(欣也)よね夫妻の東京深沢邸宅の庭園と鎌倉別邸扇湖山荘庭園など、数々の名園をつくった。植治の流れは甥の岩城亘太郎ほか、各地に受け継がれていく。
植治とともに扇湖山荘を手がけた大江新太郎は1924年『アルス建築大講座』に掲載された「作庭意匠」と題する論考でほかの建築家の視点、庭園鑑賞に関してではない、庭園設計にいたる方法論を展開している。掲載された図面には園内要所からの眺望視界線が記入されているほか日本庭園の分類を従来の築山、平庭、露地の3つに壷庭と崖庭を加えていて、崖庭の好例として三仏寺投入堂を挙げている。
大正から昭和にかけては自然の地形や環境を巧みに利用した庭園が数多く生まれる。大正期に造成された段丘の崖にできた谷を巧みに利用した後の満鉄副総裁江口定條の別邸殿ヶ谷戸庭園や波多野承五郎の別邸滄浪泉園、武蔵野の風景を伝える徳富蘆花住居蘆花恒春園などが生み出されている。これらの東京に残る名園は皇居東御苑や祖庭長岡安平が手がけた相馬邸庭園、現新宿区おとめ山公園などのように再整備され、現在一般公開されるに至る。
宮内省にいた造園家小平義近らの明治神宮内苑は、芝生の間をゆるいカーブの園路がめぐり、自然主義の庭園といわれる、雑木の多い森と人工とも思われない池をもつ。小平は当時多くの宮苑造成に関与する中それまでの日本庭園のあり方を咀嚼し、その上で新宿御苑のように当時の欧米先進国で数多く試みられていた自然風景式大規模庭園の特徴を加味することを試みている。
また写景でなく、自然の景趣を写そうとするものも現われ、作庭者の主観の強い造形的、装飾的な庭園となった。画家の山元春挙と造園家の本位政五郎が造った大津市の蘆花浅水荘は文人風の庭といわれ、これを継いだという小島佐一にも京都市の川田邸の庭があるが、昭和の初め頃に飯田十基(寅三郎)が推進した雑木の庭は、十基自ら「自然風」とよび(十基は他を「作庭式」と呼んだ)その後小形研三に継がれ、都市の人工化とともに急速に広まっていった。飯田十基らが植治と異なるのは、雑木という全国の山野に自生して、強健で種類も多く、移植しやすい材料を求め、それ自体を原寸大で自然に見せる手法を確立した点である。その後、材料調達・運搬の容易さ、原野という参照項の手近さ、選定方法の確立、未成木の植栽方法の定式化によってこの方法は伝えられ、後には山取した雑木を畑に植えて流通をも確保している。飯田十基の自然風のこうした庭は鉄やガラス、コンクリートの建物にも広大な敷地にも狭いそれにも不調和を見ない形式であった。
大正期には建築界では都市と住宅のあり方は新しいテーマとして浮上し、生活改善運動の一環として住宅庭園にも関心が高まる。近代建築家による庭園論では作庭記に代表される視覚的な庭園評価とは異なり、機能性や空間性を重視した視点が打ち出されている。当時生活改善同盟会による6つの網領の中に庭園が項目としてあげられ、さらに1919年に日本庭園協会が設立されることとなる。協会を中心に古庭園の研究や、同時代の建築家や造園家、作庭家らが新しい庭園を模索した。古宇田実は庭園関連の記事を精力的に執筆し、保岡勝也は茶室や数奇屋建築と庭園を紹介する書物を多く出版している。またこれと平行して庭園の研究を開始した重森三玲は、全国に現存する庭園を実測し、また昭和に入ってからは寺院に多くの枯山水の庭園をつくり、寺院における自然主義的な庭園を批判して象徴的な庭園を打ち立てた。
庭園の実測は重森のほか戦後の西沢文隆の実績が知られ、その膨大で精妙な庭園の実測図は実測図集として出版されている。また古建築の中庭に関する論考集が相模書房から出版されている。
以下の三つの日本庭園は、それぞれ雪月花を鑑賞する代表的な大名庭園として、日本三名園あるいは日本三大庭園と呼ばれる。
ただし、その由来や選定基準は明確でない。いずれも江戸時代につくられた広大な大名庭園が選ばれている点で、日本庭園すべてを考慮したものといえないことも指摘されている
足立美術館 (島根県安来市) - アメリカの専門誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』の「優れた日本の庭園ランキング」で2003年以降、毎年グランプリを獲得
19世紀後半、欧米圏ではジャポニズムの流行とともに、庭石・太鼓橋・灯篭・茶室などを配した日本風の風景式庭園がつくられるようになった。現地の作庭家が日本をイメージして奔放に制作したものもあれば、日本から職人を招いて制作したものもあるが、いずれも「日本庭園」(Japanese Garden)と称される。
1867年のパリ万国博覧会は日本(江戸幕府・薩摩藩・佐賀藩)が初参加した万博であったが、このときに日本庭園が制作されて以来、欧米で開催された万博において日本庭園は日本の出展物の目玉の一つであった。ヨーロッパでは貴族や富豪が日本風庭園を作るようになり、北米大陸でも公園の一角に日本風庭園や茶亭が制作されるようになった。この時期、ヨーロッパで活動した日本人庭師に畑和助ら、北米で活動した日本人庭師に岸田伊三郎らがいる。
お雇い外国人として来日していたイギリス人建築家ジョサイア・コンドルは、1893年に『日本庭園入門』(Landscape gardening in Japan)をケリー・アンド・ウォルシュ社から出版した。日本庭園の沿革から構成方法いたるまでを小川一真の撮影による写真を多く用いて視覚的にもわかりやすくまとめたもので、コンドルは、日本の庭園造形は周囲の自然風景の特徴ある部分を選び出してレ・プレゼントしたものである、と説明している。この本はイギリスのほか上海やシンガポールでも販売され、児玉実英によると、当時この本を参考にアメリカなど海外で日本庭園が実際に造られたとされる。第二次世界大戦後はアメリカで復刻され、現在でも講談社インターナショナルで復刻版が刊行されている。
第二次世界大戦後は、姉妹都市間の交流の一環などとして新たに日本人作庭家の設計による日本庭園が作られることがある。アメリカ合衆国では日本庭園愛好者のための専門誌も発行されている。
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